エレクティブクラークシップ感想 国立台湾大学病院救急科

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201416日から131日までの4週間、台湾の国立台湾大学病院救急科で実習した。台湾大学病院を希望した理由は2つある。1つは、前年まで東大から台湾大学に学生を派遣しておらず、自分が第1期生になれるから。もう1つは、高校時代にマレーシアの華人宅に1年間ホームステイした経験があり、中国語を含むチャイニーズの文化に明るいと自負していたからだ。救急科を選んだ理由はいくつかあるが、実習期間の都合が影響した。事前にもらった書類によると、内科と精神科が6週間、小児科と産婦人科と救急科が4週間、外科を含むその他の科が3週間と、各科の実習期間が指定されていた。自分の興味や言葉の問題から外科系を選びたかったのだが、外科系は実習期間が短く、エレクティブクラークシップの1単位である4週間に満たなかったため、4週間の救急科を選択することにした。後から考えれば、内科と外科を合わせて9週間実習すればエレクティブクラークシップ2単位分とすることができた。また台湾に行って初めて知ったことだが、他の大学から来ている交換学生は「内科5週間」や「救急科2週間と産婦人科2週間」など書類上はありえない期間設定をしていたので、実は交渉次第で自由にアレンジできるようだった。

出発前にした準備は、台湾大学の張以雯I-Wen Chang)先生と連絡をとって実習期間を相談したり必要書類を提出したりした他、救急科の勉強をしていた。なお、先生はアジア的な時間が流れている方で、連絡が非常に遅いことがある。ウェブページから入手するよう指示されたファイルがダウンロードできなかったためデータを送ってほしいと頼んだところ、2週間以上返信がなく、電話で再度頼んだら対応してくれた。また2014年は131日(金)がチャイニーズニューイヤーで、30日(木)から学生実習が休みになるという旨を1210日に伝えられた。一方、31日まで実習があると思って22日(日)に帰る飛行機を予約していた私のために、チャイニーズニューイヤーを一緒に過ごす学生を探してくれるなど、アジア的ホスト精神も持ち合わせた先生である。

台湾に着いてからの生活には特に苦労しなかった。台湾は東南アジアのように常夏かと思いきや1月〜2月は寒く、最高気温が15℃を下回る日もあった。また冬は雨が多い。日本の冬物の衣類を着て、常に折りたたみ傘を持っていれば問題なかった。病院の裏にある臺灣大學景福會館(通称JingFu)という21部屋の宿舎に住んでいたが、同じ国からの交換学生が同室になることが多いようで、ルームメイトは大阪大学の学生だった。事前にもらった資料では机が11つあるとのことだったが1つしかなく、2人同時に物を書くことは困難だった。しかし本を読んだりノートPCを使ったりするのはベッドの上でできるので、2人で机を譲り合いながら使っても不便を感じたことはない。洗濯機が宿舎全体に2つしかなく常に誰かが使用していたため、衣類は風呂場で手洗いし、部屋で干していた。また宿舎の管理人は34人が日替わりで勤務していて、英語を話せない人が多いが、仲良くなると台湾語を教えてくれたり洗濯を代行してくれたりと人懐こい。

実習がある日の1日は、8時からカンファ、9時から12時まで救急外来実習、昼食と休憩の後13時半から17時まで再び救急外来実習だった。午後はクルズスのある日もあった。昼休みが長いが、台湾の学生は昼食後図書館や宿舎で昼寝をしていたので、私もそれに倣って昼寝をしていた。宿舎に台所がないので、朝食は病院の食堂で食べてから行くか、院内のコンビニで買って朝のカンファ中に食べた。昼食は一緒に救急科を回っていた班の学生と一緒に病院の食堂か外の食堂で食べ、夕食は外食だった。台湾大学病院は台北市の中心である臺北車站駅のすぐ近くにあり、食べる場所には困らなかった。また、少々油こい料理が多いが、味は大体日本人の舌に合うものだった。夜時間があるときは、部屋のテレビで台湾語や客家語の番組を見ていた。台湾のテレビ番組は何語を話していても標準中国語の字幕が出るので、言語を学ぶのには非常に都合がよかった。

言語の使用状況についてはやや複雑である。主に公用語である「國語」(標準中国語、ただし南部発音)が用いられるが、年配の人を中心に台湾語や客家語(中国語の方言で、國語とは互いに全く通じない)の方が流暢な人が一定数いる。学生の世代ではほぼ全員が國語を母語としているが、流暢さに差はあれみな台湾語も理解する。学生や医師たちは、日常的には國語を話し、台湾語の方が話しやすい年配の患者とは台湾語で話していた。また繁体字中国語の医学書が少ないため教科書はほとんど英語のものを用いていて、医学用語をすべて英語で覚え、カルテの病歴も英語で記入していた。英語を話すことに抵抗がない人が多く、私が中国語で理解できない時は英語で説明してくれた。ただしクルズスを全て英語で行なうのは「しんどい」らしく、國語で構わない旨を伝えると安堵の表情を浮かべる先生が多かった。交換学生は英語でコミュニケーションがとれれば十分ということになっているが、やはり中国語(國語)を理解できるに越したことはないようだ。なお、日本以外からの交換学生はほぼ全員華人だった。

台湾大学病院の救急科を回って非常に驚いたのは、患者の多さであった。毎日診察の順番を待つ人で廊下まで溢れかえっていた。もちろんそれらの患者全員が救急を必要とする訳ではなく、むしろ多くは自分で歩いたり話したりできる人だった。医師たちは、腹痛、発熱、足の爪が折れた、など軽症の患者を次々と処置するのが主な仕事になっていて、稀に交通外傷や心停止などの重症患者に対応していた。言ってみれば、日本の感覚から見れば救急ではなく「総合外来」化していた。また当然患者一人一人の待ち時間は長く、中には「救急でどれだけ待たせるんだ」と看護師に怒鳴る患者もいた。看護師も「医者はこんなに多い患者をひとりずつ見てるんだよ」と怒鳴り返していて、混乱した様子だった。問診の見学や外科的処置の手伝いをする間に医師や一緒に救急科を回っていた学生に聞いたところ、台湾では保険が効けば医療費が非常に安く、また大学病院や救急は必要な人だけが行くところだという意識も薄いため、簡単に大学病院の救急を受診するそうだ。実習中に半日消防署の見学をしたが、救急車に乗車した2件のうち1件は、病院から数百メートルの自宅内で頭を打った高齢者の家族からの要請だった。想像していた「救急」の実習とは違ったが、日本と異なる文化の診療を見ることができ、充実していた。なお、台湾の学生やレジデントは裾の短い白衣を着ていて、長い白衣を着るのはキャリアを積んだ医師だけだそうだ。日本の病院で着ている長い白衣を着ると相当目立つ。

実習終了後ではあるが、チャイニーズニューイヤーの初めの3日間を4年生の学生の家族とともに過ごした。大みそかと新年初日は彼女の父親の実家のある高雄市美濃區で、新年2日目と3日目は彼女の母親の実家のある桃園市で過ごした。台湾南部と北部の伝統的家庭文化に触れることができ、台北での実習では得られない貴重な経験であった。今後台湾で実習する学生は、あえてチャイニーズニューイヤーに実習期間が重なるようにするのも面白いだろう。なお2015年のチャイニーズニューイヤーは219日からである。

以上のように、台湾大学や台湾の人々にほぼ無条件で受け入れていただき、非常にお世話になった1ヶ月であった。一方、台湾大学から東大へ留学するには日本語能力検定で一定以上の級に合格していなければならないそうだ。台湾の学生からそれを聞いた時、非常に申し訳なく気まずい思いをした。近い将来そのような失礼がなくなることを祈るばかりである。