University of Pennsylvania 研究留学体験記

                              M3 male

1.       留学先・プログラムの選択にあたって

私は、201113日から42日までの3カ月間、東京大学医学部国際交流室にお世話になってアメリカ東海岸のフィラデルフィアにあるUniversity of Pennsylvania(以下UPenn)に留学しました。3カ月間は「研究実習」ということで、臨床に近い研究室に通いました。

 M35月の応募の時点では、「自由な活動が許される3カ月間、できるなら海外に行って見聞を広めたい」という気持ちがあったものの、具体的なプランも人づてもありませんでした。今まではフリークオーターの期間を利用して2回ほど研究室に通ったことはあります(それぞれ2週間と2か月間)が、部活等もあってその後継続して研究を続けるには至らず、自分の取り組みに中途半端な感じをぬぐえませんでした。一方、東京大学で勉強し、医師となる予定の身としては、将来は臨床の場から発する疑問や要請に基づいた研究に参加したいという気持ちは当時から強く持っていたので、この機会に海外でまとまった期間研究に勤しむというのは魅力的に思われました。

また、渡米にあたっては許される限り向こうに滞在しよう、というかなり単純な考えから1/3~4/2というmaximumな期間を設定しました。元旦を仙台の実家で過ごし(後から考えると、強行日程を押してでもこの時帰仙したのは正解でした)、すぐ東京を経由して渡米、帰国前は前日までラボで研究し徹夜して朝3時半に空港へ、DC経由で帰国後は1日休んで東大病院でのBSL実習開始という、まあ余裕が全くない日程を満喫しました。

 臨床留学も十分に魅力的でしたが、自分が将来留学するとしたら臨床ではなく研究で行くことになるだろうと思いましたので、そのintroductionとしては研究留学がより適切なのではないかと考えました。

 東大が研究留学で国際交流協定を締結しているのは、2010年時点でアメリカペンシルベニア大学とドイツのミュンヘン大学でした。私は日本語と英語以外全く話せないという現実もあり、Ivy leagueを形成する一員であるUPennへのあこがれもあって、結局は「University of Pennsylvania, research」で希望を提出しました。

 

2.       選考に際して

   お恥ずかしい話ですが、応募した時には「臨床に近い研究、そしてMDのボスが主導しているラボ」という以外に具体的なプランは皆無でした。また、英語能力の証明についてはそれまでの高校・大学生活で要求されたことがなく、「英検二級」という8年前に取得した資格(!)しかないというひどい状態でした。

   日本語面接では、応募申請書のコピーを取っておいて、その内容を説明する心構えで臨みました。また、英語に関しては、その場で思ったことを即答するほどの英語力はないと思ったので、A4数枚につれづれなるままの心の内をしたため、数回音読して練習しておきました。結果的に、当日はその内容の半分も話せませんでしたが、Holmes先生とはいつも通りに話すことができ、大きな失敗はなかったと思います。

   何とか日本語の応募申請書と、日本語面接、英語面接をパスさせていただき、いよいよ渡航準備・・・となる予定でしたが、東医体や鉄門倶楽部の活動、そして夏季病院実習(東京で2週間・沖縄で10日間)などといろいろ活動しているうちに、実際に準備を始めたのは8月後半でした。

   また、公式な交流協定を使って派遣が決定したことで、国際交流室の丸山先生に「東京大学国際交流基金奨学金」の申請を勧めていただきました。申請に際しては丸山先生にご協力いただきながら申請書を作成し、成績証明と英語能力証明(英検・・・)を付与して提出した覚えがあります。夏休みごろに受給が決定し、渡航前の12月には口座に振り込んでいただきました。これは貸与型ではなく支給型の奨学金なので、留学中の経済状況的にもかなり楽になりますし、何よりアメリカでは「大学のScholarshipを支給されてきている」ことが優秀な学業成績の証明として取られる場面が多々あったので、ぜひ利用すべき制度だと思います。帰国後に報告書の作成がありました。

 

3.       英語能力の向上??

 Holmes先生の課外授業には時間が許すときにM1のころから少しずつ顔を出して指導を受けていましたが、派遣が決定した6月の末からは本郷三丁目駅前の英会話教室にも週二回の頻度で通いました。英会話教室の意義については諸説ありますが、個人的には「自分から話題提供をする能力」を磨くことができたと思います。Holmes先生の授業にもたびたび出席しました。Speakingはとにかく機会を見つけて磨くようにしました。

 8月中旬にはまずTOEFLを受験しました。これは形式になれると点数が上昇する類の試験なので、複数回受験するといいらしいです。私の場合は、一回目でペンシルベニア大学が外国からの留学生に要求する点数(School of Medicine, global health program Homepageに出ています)をクリアできたので、二回目は受けませんでした。やはりライティングとスピーキングが課題だと感じました。

 英語を勉強するといっても、私は期限があって追い詰められないと頑張れないタイプなので、11月にはTOEICを受けてみました。この結果はアメリカでは全く使うことがありませんでしたが、なぜか日本ではTOEICが英語能力の尺度として社会に浸透している場合があるようですね。

 今留学から帰ってきて思うのは、英語はぺらぺらとしゃべれるに越したことはありませんが、(最低限話せれば、)評価されるのは「内容」で、伝えたいことがどれほど相手にとってinterestingかが重要だと思います。こちらが実験結果を説明する、もしくは今後の実験計画を話すなどいった場合、ラボの中で話すときには相手は大変丁寧に聞いてくれます。また、日本に興味がある友達に母国のことを話すときなども全く問題ありませんでした。難しかったのはこちらに興味がない人たちの興味を引く必要があるとき。たまたまバーであった人だとか、苦情を言いに行くときだとかは時に苦労しましたね。

 

4.       ラボ選び

 交流協定とはいっても、ラボ選びは各個人に委ねられています。これが研究実習が「運次第」と言われる所以かもしれません。私の場合、1. 臨床に近い基礎的研究であること、2. 内科系のラボ、3. 規模が小さすぎない(学生が一人入って「邪魔」をしても余裕がある)、4. できれば興味がある循環器・免疫・代謝などの分野・・などといった条件の下でラボを探しました。論文をじっくり読んでもラボの雰囲気が分かるわけではないので、Home pageの紹介を読んだりして、その時の感触で選んだボスに即メール、といった方針で臨みました。メールの内容はHolmes先生に添削していただきました。Non nativeの私としてはやはり丁寧な言い回しかどうかなど、どうしても分からない部分が多かったので、大変助かりました。Dean’s letter, Academic transcript, CVも添付しました(すべて英語版を取得。Dean’s letterは国際交流室の方から、Academic transcript:成績証明は教務係から、CVは丸山先生のくださった例に従って自分で作成)。

 私の場合、前述のとおり夏休みに忙しかったことなどからラボにメールを初めて出したのが9月のはじめという驚異的な遅さでスタート。ビザを取ることも考えるとかなりギリギリで、正直間に合ったのは偶然かもしれないので、後輩のみなさんにはもう少し早くラボ探しをすることをお勧めします。

 メールを出したDr.Raderはコレステロール逆輸送(Reverse Cholesterol TransportRCT)の大家で、ペンシルベニア大学内でもかなり有名な教授らしく、大変忙しい方でしたが、メールをして30分以内に「君にバイト代を払う必要はあるのか」という一行メールを返していただき、「その必要はまったくありません」とすぐに返信しました。アメリカのラボとしてはグラントの関係もあって、研究室に来る学生が「有給」なのか「無給」なのかが重要なようです。Homepageの情報によるとDr.RaderInstitute for Translational Medicine and Therapeutics (ITMAT)という研究施設でコレステロール代謝の研究を進めており、MDで、ラボの規模は40人以上とのことでした。

 このようにfirst contactは非常に迅速に行えましたが、Dr.Raderからはその後1ヶ月(!)返信がなく、少し慌てました。その間に第二希望の研究室にも応募し、こちらは「受け入れOK」の返事をもらっておきました。

 10月になって、Dr.Raderから「OK」の返信をいただき、それ以降はビザなどについて研究室付きの事務の方とメールを進めていきました。結局、東大の医学生が、すべて自費で研究室に学びに行きたい、と丁寧な英語のメールを送れば断られることはそんなにないのかなと感じました。ある程度数撃てば必ず受け入れてもらえるはずです。

 また、10月末に糖尿病代謝内科で勉強していた折に、偶然同教室の塚本和久先生(現福島県立医科大学会津医療センター教授)がDr.Raderと一時期ともに研究するなど深いつながりがあったことを知り、Dr.Raderに推薦のメールを送っていただいたり、過去に同教室に留学していた先輩を紹介していただいたりと、大変お世話になりました。

 

5.       準備、準備、準備!

Where to stay?

 準備としては、まず9月上旬に「International House Philadelphia(IHP)」の予約を取りました(web上で。デポジットとして$300ぐらいクレジット払い)。これは各国からの留学生、もしくはアメリカのほかの州からのインターンシップ生などを受け入れている寮のようなところで、私が予約したのはsingle room with shared bath and kitchenという$780/monthの部屋です。フィラデルフィアは安全な地区は家賃も高く、仮にこれより安かったとしても家具付ではないと思われるので、悪くない選択だったと思います。Kitchenがついていない、より安いタイプもあります。私は自炊を全くと言っていいほどしなかったので(東京でもできてないのになぜ外国でできるだろうか、いやできない)、kitchenは必要なかったかも。IHPUPennなどの大学活動への参加などが入居に際して必要な条件ですが、予約の際には具体的なラボの確定等は必要がなく、かなり審査は甘かったです。アメリカの施設全般に言えることですが、「お金を払えば大抵大丈夫」。

 〈ビザ〉

 J1ビザはDS-2019という書類をラボから送ってもらう(これだけは郵送)ことが必要で、それが手に入ってからはかなりスムーズに進みました。事務の方と深夜にメールをやり取りし、必要書類をそろえ、申請しました。まずTOEFLの点数(受験から結果発表までに2週間強かかるので注意)、銀行の英文預金残高証明書(申請後2日ぐらいかかる)、そしてワクチン接種の証明書が必要であることが注意点でしょうか。どのワクチンが必要となるかは、やはりSchool of Medicine, global health programのホームページに出ている書類をDownloadして確認します。新型インフルエンザウイルスワクチンが新たに加わったようです。英語の証明書については丸山先生に署名していただきました。また、胸部XPが必要なので、6月ごろに受ける定期健康診断の結果は忘れずに保管しておきましょう。

 私の場合、書類がそろってそれをすべてスキャンして送ったのが10月中頃、DS-2019が送られてきたのが11月中旬です。Jessieという事務の人にこまめにメールして、早く、早く、と急かしてこれぐらいでした。Jessieはとても親切な方で、UPSの速達で郵送してもらった(郵送費 $80ぐらい?)ので、大使館の予約も手早く、スムーズに取れました。

その後は大使館のページでビザ申請書類を作成、オンラインで11/30に大使館の面接を予約、そして写真・ExPack500などをそろえて実際に軽い英語面接を虎の門の大使館で受け、1210日ごろにはビザを無事getしました。用意する写真のサイズ、申請する際のファイルの並べ方、などすべて大使館のページに従ってください。大使館の面接では、「君のボスは?」的なことを聞かれ、それに答えたら終わりました(!)。

大使館の予約は830分という最も朝早い時間を予約しました。朝の方が待ち時間が少ないと聞いていたからです。745分ころに大使館に着きましたが、すでに10名くらいの方が並んでいて驚きました。少し待たされましたが、面接終えて9時ごろにはすべての手続きを終了し、その後10時前ぐらいには大学に戻れました。

 peer host制度〉

ビザの取得はRaderラボの事務の方とやり取りして行いましたが、それと同時にglobal health programMs.Valerie Sicaともメールでやり取りし、こちらにPeer hostという制度の利用をお願いしました。これはUPennの医学生を個人的に紹介してもらい、滞在中お世話してくれる制度です。私の場合、初日に空港に迎えに来てもらったのはかなり助かりました。その後はMed studentは忙しいということもあり、数回ご飯を食べに行ったぐらいですが、おすすめの制度です。

 〈航空券〉

航空券はインターネットのサイトで「J1ビザを持っている学生・研究者限定」という広告にひかれ、往復12万円の1年間open FIX航空券をHISで購入しました。これは帰りの日程を$200で変更することができるというものでした(この時点で帰国日程未定だったため)DC経由でPhiladelphia international airportという経路でしたが、DC-Philly間は電車もバスもあるので、DC-成田の往復チケットのみの方が安上がりだった可能性はあります。

 〈国際免許証〉

その他、国際免許証を取得しました。これは秋のある日、神田の免許センターに行って1時間もかからずに取れました。滞在中免許として使用することは皆無でしたが、アルコールを注文するときの年齢チェック用としては重宝しました。パスポートを持ち歩くのは少し気が引けたので、国際免許証をコートのポケットに入れて行動していたからです。

〈お金〉

まず、アメリカはクレジットカード社会です。留学に際して、私は自分の口座につながっているカード(要は、無収入の学生でも契約できた東大カード(Master)と銀行の発行するクレジットカード(Visa))を2枚と、一応父の持っているカード(Visa)の家族カード(限度額が高い)を1枚持っていきました。PhiladelphiaではVisa, Master, AMEXという鉄板のほかにDiscoveryとかいうカードが使える店が多かったです。ご存知の方も多いと思いますが、JCBは全く使えません。前述のカードの内、学生カードは電話で限度額を引き上げた上に、キャッシング機能を有効にしておきました。留学で・・・と説明すると、限度額の引き上げ審査もすんなり通りました。

このほかに、現金が必要な場面もあると思い、Traveler’s check $2000分用意していきました。大学があるUniversity cityでは使用できない店が多かったのですが(Penn bookstoreは使えます)、市中心部、観光地、本屋では問題なく使えました。現金が不足してもクレジットカードでATMからおろせたので、これで困ることはありませんでした。TCはなくてもよかった可能性すらあります。

 〈その他〉

自分としては、日々の東大病院での各科BSLを大切にしました。どうしようもない予定のある日を除いてほぼすべて出席し、毎週のレポート作成は「学術論文を書く練習」だと思って取り組みました。ただでさえ冬に東大で勉強できない期間がある自分としては、自分の直接のロールモデルとなる先生方から学ぶことのできる日々の実習が貴重に感じられました。

また、循環器のラボということで、(全く関係ありませんでしたが)、週末に千葉県に通い、American Heart AssociationBLS, ACLS providerの資格を取っておきました(単なる趣味)。USMLEは勉強しようかとも思いましたが、時間を割くpriorityを自分なりに考え、鉄門倶楽部(およびだよりの編集)や部活もあったので結局STEP1すら取らずに渡米しました。その他、英語学習(と言っても先述の英会話教室での雑談、英語CDをipodに入れて聞く、ぐらい)、学会の英文スライド和訳アルバイトなどをやっているうちに瞬く間に時は過ぎ、渡米の日を迎えました。

 

6.       いざ、アメリカへ

 アメリカ行きの飛行機は時間通りにPhiladelphiaにつき、途中トラブルもありませんでした。空港では前述のPeer hostに迎えてもらい、ラボにはついたその日にボスに挨拶に行き、次の日の朝から早速研究に参加しました。

 UPennは留学生にもPennCardという学生・職員証を発行してくれるので、これで図書館、附属美術館(かなりおすすめ)はすべて無料で出入りできます。また、Black keyという鍵を申請することで医学部系の建物のフリーアクセスと学内WiFiがすべて使えるようになりました。これらの準備に2日ほどかかりました。

〈到着して1週間・・・英語が通じない!?〉

 とりあえずすぐ感じたのは「習慣」違いです。店でオーダーするとき、買い物に行くとき、タクシーの乗り方、あいさつの仕方、などなど、外国人ならではの壁にぶつかりました。特に思い出深いのは、スタバで「Name?」と聞かれて何のことだか全く分からず数回聞き返して客の列の前で恥をかいたことです。最初は街の商店やタクシーの運ちゃんが英語で何を言っているのかわかないことが多々ありました。でも大学のラボ内では不思議とコミュニケーションに不自由することはない・・・。しばらくすると、街の人びとの英語がイタリア、中国、韓国、スペイン、等々のなまりが強いせいで何言っているのかわからないのだということに気づき、それ以後は堂々と「なに?何言ってるかわからないけど?」と聞き返すようになって、コミュニケーションストレスがなくなりました。日本で私たちが学んだのはいわゆるStandardな発音なので、戸惑うことが多かったというわけですね。

 ラボの人たちには最初のうちは英語を褒められることが多かったのですが、ほめられているうちは所詮「ガイジン」だと思われているんだと肝に銘じて、「そんなことよりも、・・・」とよく話題を転じていました。

〈研究内容〉

 ラボに到着した当日、驚いたことにDr.Raderのもとでは日本人ポスドクが2人も研究をしていました。防衛医大と福岡大学の循環器内科からいらしていた先生でしたが、彼らのおかげでラボになじむのはとても楽になりました(というか、昼間ラボでは半分は日本語!)。留学中は最後まで大変お世話になりました。

 Dr.Raderと初めて会った日、午後にScienceの話をしよう!と言って、忙しい1日の中でミーティングの時間をとってくださり、そこで何をしたいのか聞かれました。私は「MDの視点で研究を進めることの意義を実感したい」「今は医学生として医師免許取得まで残り1年という時期であり、将来の自分のキャリアを考えて、臨床に近い研究室を選んだ」などの話をしました。先生は「では、いま進めているテーマに参加して、特に論文の書き方も学ぶといい」と行ってくださりました。研究の成果は論文として現れるし、そのプロセスを学ぶことが君の将来に役立つだろう、とのことでした。Dr.Raderは大変忙しい人でありますが、自分がUPennProfessorとして教育部門にも力を入れることを当然と感じていらっしゃるのか、突然外国からきた私にも親身になって相談に乗ってくれたと思います。先生にはその後、UPennで開かれる数回の講演会に招待していただき、さらに彼のlipid clinic (外来)見学までさせてもらいました。教育者としての先生の使命感は見事なものでした。

研究テーマとしては、2つあり、一つは前述の防衛医大循環器科の中家先生とともにあるビタミンがHDLコレステロール代謝に与える影響をマウスin vivo studyで明らかにするというものでした。もう一つ、ある薬剤の効果を調べるという方はDr.BillheimerというPhDの先生と進めていましたが、マウスの状態が良くなかったこともあり、あまりうまくいきませんでした。

ビタミンの研究とはいえ、1月はコレステロールの解析、放射性物質を使った研究法の習得、そしてin vivo RCTの解析方法に慣れる・・・などいわゆるテクニシャン的なことをしているうちにあっと言う間に過ぎていきました。2月に入ると、前述のDr.Billheimerとの研究も進めつつ、自分で考えて実験を行い、研究結果をまとめるというプロセスにも慣れていきました。自分で工夫して組んだin vitroの系は結局positive dataが出ませんでしたが、それでもその思考プロセスをラボのポスドクの先生方と話し合いながら進めたのはいい経験でした。3月に入ると、補助実験をしつつ、実際の論文をまとめる作業に入り、部分的に執筆を任せてもらいました。文献を引き、論文英語を模索しながらの作業でしたが、自分がとったデータをFigureにして記述していくのは楽しい作業でした。

論文投稿は結局帰国に間に合わず、20114月末の投稿を目指して今もメールでのやり取りを続けています。結果はどうなるかわかりませんが、MD研究者として実際にどのようなことをするのかについては明確なイメージを掴めたと思っています。その他に、週一回のLab meeting, 隔週のjournal clubに参加し、不定期の講演会を聴講し、帰国前日には大学病院で行われている臨床研究の解析を手伝ったりと盛りだくさんでした。こちらが意欲を示せば基本的にどんなことでもやらせてもらえ、正当に評価される雰囲気が好きでした。

 〈休日の過ごし方〉

「アメリカ人は9時出勤17時帰宅、土日は休み」。これが基本だと思っていましたが、とんでもない。Rader Labの先生方、学生は熱心で土日も夜も誰かしら実験していました。私も中途半端で帰国したくはなかったので、土曜日も半分くらいはラボにいました。それでも時間はたっぷり余りましたので、思いつく限り遊びました。

フィラデルフィアはそもそも古い街並みに観光スポットが点在しており、大学地区からCenter cityと呼ばれる中心部までは歩いて行ける距離なので、よく街歩きをしました。映画ロッキーの舞台となったフィラデルフィア美術館、自由の鐘、市議会は必見として、観光以外にも大抵のことはフィラデルフィアでできます。Chestnut streetの繁華街、Walnut streetのブティック街、そしてold cityの街並みとSouthイタリアンマーケットのチーズステーキ・・・と見どころは尽きません。レストランも各国のものがそろっていて、ピザ、ムール貝料理(musselと呼ばれる東海岸の名物です。)、ギリシャ料理、中華料理(china townがあります)、メキシカン、アメリカン等、3ヶ月でずいぶんと堪能しました。また、地ビールの種類の豊富さはまさに圧巻で、どのビールも大変おいしいと感じました。地ビールのあとに「サッポロ」を飲むと味がない炭酸水のように思えるほど。年齢審査は厳しくて、お店ごとに必ずパスポートなどの公的書類の提示を求められました。ペンシルバニア州は特に酒類販売権の認可が厳しくて、中にはBYOB(bring your own bottle: 酒類持ち込み歓迎)という店も少なからずありました。

1月は寒かったのであまり外を歩きませんでしたが、23月にもなればよく外を出歩きました。Macy’sというデパートを除いた後にReading terminal marketで新鮮な材料やお菓子を買い、Rittenhouse squareBarns&Nobleという本屋で時間をつぶす・・・そういったゆっくりとした時間を過ごすのにこの街は全く不自由しませんでした。

 Philadelphiaの外へ〉

   PhiladelphiaNew yorkWashington DCのちょうど中間に位置し、東海岸の観光には事欠きません。私は滞在中にNew York2回、DCとボストンに1回ずつ行きました。Philadelphiaの人々にとってNYは、休日にちょっと買い物へ・・といったノリで行く街らしく、Megabus, Boltbusといったバス会社が$10程度で2時間以内にNYに連れて行ってくれます。DCに行くのはAmtrakAcelaという新幹線のような電車を使い、ボストンへは飛行機を使いました。その都市ごとの色があり、とても興味深い経験を各所でしました。

   また、ペンシルバニア州の中でも、電車とバスを使って郊外にも行きました。バスと電車はすべてSEPTAという会社が運航していて、トークンというコインを購入すればほぼどこへでも行けます。King of Prussiaという巨大モールやワシントン初代大統領が独立戦争の際イギリス軍と戦うために冬を過ごした兵営地などに行きました。

 〈ひとびと〉

   フィラデルフィアはニューヨークやボストンと違って日本人は少ないと思います。それでも日本人社会は存在し、特にUpennに来ている研究者の先生方や、東京にも校舎があるTemple Universityの日本人とはよく会いました。Upennでは東大循環器内科からご留学されている武田先生にもお話をお聞きする機会がありました。

   Temple Universityは日本留学プログラムがあり、日本に関心を持った学生が多く、そういった学生ともよく飲みに行き、その後彼らの家で飲みなおしたりすることで、アメリカの大学生の生活も垣間見ることができました。彼らとの交流はとても良い思い出です。

   International Houseに滞在したことは、いろんな国の学生と交流できたという意味でもよかったと思います。中国人、韓国人、アメリカ人、ドイツ人、メキシコ人、イタリア人、アルゼンチン人、インド人、ルクセンブルク人・・・と数えきれない国籍の人間が一つ屋根の下で生活するわけですから、自然と交流も生まれます。唯一の共通点は英語を話すということ。ヨーロッパ系の人たちは数か国語しゃべれるのが当たり前のようで、よく何か国語しゃべれるの?という話題となり、well, just two…と答えていました。彼らとは今後も交流を続けていけたらと思います(Facebookのアカウントを作っておきましょう!)

   アメリカの人々も海外から人が来ることには慣れっこで、変な偏見を持たないのが日本と決定的に違うところだと思います。「国籍はどこ」ではなく、「どれだけ英語がうまいか」でもなく、もっと深いところを見て「この人はどういう人か」で評価してくれるように感じました。移民の国から歩みを始めた国が、歴史的にHomogenousな環境が整備されてきた日本社会と異なるのは、自然なのかもしれません。

 〈治安、悪いのか?〉

   治安を懸念する体験記が今までありましたが、その頃よりはかなり良くなっているのではないでしょうか。危険と言われる地区に全く足を踏み入れなかったので危ない思いは一度もせず、スリも盗みも経験しませんでした。治安としては、40thより西、Southより南、Archより北は危険なので行かない方がいいでしょう。あと、全米第2位の犯罪都市、Camdenに行くのは論外です。しかし、それ以外の場所、特に大学地区(University city)の安全性などは東京とほとんど同じで、深夜まで実験をして午前12時ごろに一人で歩いて帰っても警備の人間以外に出くわすことは皆無でした。慣れるまではMarket Frankford Lineという地下鉄に乗るのも気が引けましたが、黒人が多いだけで特に危険ということもなく、2月からは普通に使っていました。もちろん気を付けるに越したことはないと思いますが、治安が特に悪い都市ではないことは強調しておきたいと思います。(あと、ホームレスにChange, Change!と小銭をせがまれることは日常茶飯事ですが、そんなときは「ガイジンルックス」を最大限に生かして英語が分からないふりをすれば問題ありません!)

 〈必要経費〉

   そんなこんなでいろいろな場所に行きましたが、前述の奨学金もあり、結局東京で一人暮らしするのと生活費はあまり変わりませんでした。食費は思ったより高かったのですが、ちょうど$1 = 80円代前半の円高の時期でしたし、通常の生活より飛行機代分が余分にかかったぐらいです。このような貴重な経験を学生の経済負担なくさせてくれる東京大学と医学部には感謝していますし、今後この経験を生かしていかねばと身が引き締まる思いです。

 

7.       そして帰国

 帰国はアメリカ入国に比べるととても楽で、ただ朝早く空港に行って、飛行機に乗って気づいたら成田、という感じでした。日本円が懐かしかったり、A4の紙がやけに細長く感じられるなどといった逆カルチャーショックを楽しめたのも2日間ぐらいで、すぐに実習開始となり、慌ただしい日常に戻っていきました。

 アメリカでは、面白い本をたくさん買ったので、スーツケースの重量オーバーに引っかかったうえ、空港の係員が要領の悪い人で追加料金を請求されました。もう少し重いと追加料金が倍かかる($400)と言われ、日本から持って行き結局一度も開くことのなかった国試勉強本や、洗面用具などを惜しげもなくじゃんじゃか捨てて帰ってきました(笑)。

 

8.       ちょっとした感想

本稿は、これから行く人の参考になるように、という視点で描くものだと思うので、感想は差し控えますが、簡単に述べると「アメリカという世界の学術的情報が集まる地を経験し、今後再び行くときのintroduction」としては最適なプログラムだったと思います。

「一昔前と違い、日本でも研究の環境は整い、特に海外に学びに行く必要はない」という意見もあり、日本からの留学生の数は年々減少しています。しかし、実際にアメリカ留学をしてみて、世界の一流大学の人たちにはやはり「余裕」が感じられ、peer review制度などを通しての情報収集の速さには目を見張るものがありました。

留学前の消極的な私は、渡米する意義を見いだせないでいる時期がありました。数々の手続き、申請、そして慣れない英語でのメール。めんどくさいと投げ出したくなることもありました。母国ですらまだ何の資格も持たず、最終学歴は「高卒」である自分には、外国に行く前にこの国で学ぶこと、やることがまだたくさんあるぞ、と。

今でもその思いは変わりません。10年後、20年後の私はこの日本という社会の医学・医療を支える一員でありたいと今も強く思います。しかし、その一方で、アメリカで見た世界は非常に開かれた、魅力的なものであったのも事実です。そこで学ぶことも、自分ができることも確かにある。そしてあの国には世界からたくさんの才能が集まっている。そのことを実感しました。日本のしがらみから完全にFreeになり、いろいろなことを考えられたのも貴重な機会でした。

数年、いや10年先かもしれませんが、「もっと大きくなって彼らの横に並びたい」。そのために自分は日本でまずM.D.になって、医学・医療の現実を感じて、そして再び海外に学びに行く機会を模索したいと思っています。

 

9.       Acknowledgement

 今回の留学に際しては、丸山先生をはじめとする国際交流室の皆様、Holmes先生、推薦していただいた教務委員会の先生方、Dr.RaderをはじめとするUPennのラボの皆様、糖尿病代謝内科の塚本和久先生、その他私のプログラムに関わる全ての人にお世話になり、その結果としてこのような貴重な経験をさせていただきました。最後となりましたが、このことをここに記し、深く御礼申し上げたく存じます。